(佐々木譲/新潮文庫)
1941年、夏。
スペイン内戦で失望し、アメリカに帰国していた日系人、斉藤賢一郎ことケニー・サイトウは、ひょんなことから米国海軍と関わり合い、スパイとして日本に潜入することになる。
日本に潜入した賢一郎は、真珠湾奇襲を図る日本海軍の動きを米国海軍に打電するため、東京を離れ北へ向かう。目標は日本海軍艦隊が集結する択捉(エトロフ)島・単冠(ヒトカップ)湾。秋が過ぎ、冬の足音が聞こえる中、賢一郎は憲兵らの追撃を振り切り、根室から千島へ渡る・・・
過日、「パールハーバー」なんて映画も公開されたましたが、この作品はその真珠湾攻撃の前夜、1941年の日本を舞台に書かれた歴史小説です。
なーんて書くと、「暗そー」「戦争ものは苦手ー」とか思われそうですが、この作品は歴史もの、戦記ものである以前に北海道・千島を舞台にした冒険小説、あるいはスパイ・斉藤賢一郎を主人公にしたハードボイルド小説、といった色合いが濃くて、キャラクターひとりひとりの内面をしっかり描きながら、徐々に温度を上げていくような展開に引き込まれながら、いつの間にか読めちゃうんですよねー。
もちろん史実をベースとした物語だけに、ディテールもしっかり。ヨーロッパで、中国で広がる戦火に翻弄される時代背景を縦糸に、初冬の北海道・千島の情景を横糸に、きらきらとしたキャラクターの個性を配した感じで描かれるドラマはまさに、豪華絢爛。
歴史小説ならではのどっしりとした力強さを、キャラクター要素重視で楽しめる手応えたっぷりの作品です。
とにかく一度読み出したら止まらない巨編。たまにはこういう本も読んで見ませんか?
主人公・斉藤賢一郎のキャラクターが、ハードボイルドな作品世界を作っていますね。のめりこみやすい感じの熱いキャラクターではなく、クールで、リベラルで、人生の全てを投げ捨ててしまったような彼の言動が、どこか読み手の共感を得る、という感じのなかなか特異な主人公。意外と読んでいてなじみやすいキャラクターです。
対照的に胸に熱い思いを抱え、敵国・日本の中で生きるふたりのスパイ、金森とスレンセンも印象的なキャラクター。煮えたぎる溶岩のように彼らの胸の中で渦巻く日本への敵愾心は、日本人である我々読み手の心を鋭く抉りながら、一方で強く共感できる部分があります。こういう脇役が作品に厚みを与えているんですよね。
佐々木譲さんはこの時代をテーマにした作品が多く、零戦をドイツに運ぶパイロットたちの活躍を描く「ベルリン飛行指令」、ヨーロッパを舞台に米軍が開発した新型爆弾に関する諜報戦をテーマにした「ストックホルムの密使」は、「エトロフ−」と揃えて三部作と呼ばれています。とっつきやすさなら「ベルリン」、キャラクターなら「エトロフ」、話のおもしろさなら「ストックホルム」かな、と。
「エトロフ」と同じ時期を、ワシントン(米軍)を舞台に恋愛描写を交えて綴る「ワシントン封印工作」も興味深い作品です。
架空戦記物のような、戦争そのものの描写を楽しむ作品ではないですが、やっぱり戦記物の苦手な人には辛い部分もあるかな、という気もします。
全体に硬い文体ですし、時代背景が時代背景なので、序盤は取っつきにくい印象がありますね。どこで賢一郎のキャラクターになじめるかが、分かれ道になるかな。時代背景の説明はきちんとしているので、中学生程度の歴史知識があれば、十分作品世界は理解できると思います。